観光客で賑わう呼子の裏の顔
佐賀県唐津市呼子町。玄界灘に面したこの港町は、透き通るような「イカの活き造り」で全国的に知られ、連日多くの観光客で賑わいを見せています。朝市には新鮮な海産物が並び、活気に満ちた声が飛び交う、まさに風光明媚な観光地です。
しかし、観光ガイドには絶対に載らない、地元漁師たちだけが知る「夜の海」の顔があることをご存知でしょうか。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った深夜の玄界灘で、イカ漁に出る漁師たちが恐れるある現象が存在するのです。それは、ネットの情報はほぼ皆無ですが、現地では古くから密かに語り継がれてきた「海の声」と呼ばれる怪異です。
深夜の玄界灘に響く声
イカ漁は主に夜間に行われます。集魚灯を煌々と点灯させ、暗黒の海にイカをおびき寄せるのです。その光は遠くから見れば美しい漁火ですが、船上は孤独と緊張に包まれています。そんな静寂の海上で、ふとエンジン音や波の音に混じって、奇妙な音が聞こえてくることがあるといいます。
「ヒシャク、カセ……」
最初は風の音か波の音の聞き間違いかと思うほど、微かな声。しかし、その声は次第に明確になり、船のすぐそばから聞こえてくるようになります。「柄杓を貸せ」と哀願するような、あるいは恨みがましいような声。これは、海難事故で亡くなった者たちの霊が、船を沈めるために水を汲み入れる柄杓を求めているのだと、古くから伝わる「船幽霊」の伝承そのものです。
柄杓を渡してはいけない理由
この声を聞いたとき、決して本物の柄杓を海に投げ入れてはいけません。もし渡してしまえば、彼らはその柄杓で海水を船に汲み入れ、あっという間に船を沈めてしまうと言われています。これは単なる迷信として片付けられがちですが、呼子の古参漁師たちの間では、今でも厳格に守られている禁忌なのです。
では、どう対処すればよいのでしょうか。伝承によれば、底の抜けた柄杓を渡すのが正解とされています。しかし、現代の漁船に底の抜けた柄杓など積んでいるはずもありません。そのため、声が聞こえたら一切無視し、ただちにその海域から離れるのが鉄則だそうです。振り返ることすら危険だとされています。
現代に蘇る海の怪異
この伝承を調べていく中で、興味深い事実に突き当たりました。船幽霊の伝承は日本各地の沿岸部に存在しますが、呼子周辺で語られる「海の声」は、単なる昔話ではなく、現代でも体験談が絶えないという点です。最新のGPSや魚群探知機を備えた現代の漁船であっても、夜の海に潜む根源的な恐怖は変わらないのかもしれません。
文献を突き合わせると、玄界灘は古来より交通の要衝であると同時に、海難事故の多い難所でもありました。無念の思いを抱えたまま海に沈んだ多くの魂が、今もなお暗い海底を彷徨い、生者の光を求めて浮上してくる。集魚灯の強烈な光は、イカだけでなく、そうした「見えないもの」まで引き寄せてしまうのかもしれません。
呼子の海に隠された記憶
美味しいイカを求めて呼子を訪れる際、目の前に広がる美しい海の下に、どれほどの歴史と無念が沈んでいるのかを想像する人は少ないでしょう。昼間の明るい海からは想像もつかない、深く暗い闇の側面。
もし、夜の呼子港を訪れる機会があれば、静かな海に耳を澄ませてみてください。波の音に混じって、微かな声が聞こえてくるかもしれません。しかし、その声に決して応えてはいけません。海は、私たちが思っている以上に、多くの秘密と禁忌を隠し持っているのですから。
