南阿蘇に潜む異形の巨木「高森殿の杉」
熊本県阿蘇郡高森町。雄大な阿蘇の自然に抱かれたこの地に、観光ガイドには絶対に載らない、住人だけが知る禁忌の場所が存在します。それが「高森殿(たかもりどん)の杉」です。牧草地の奥深く、ひっそりと佇むこの巨木は、一般的な杉のように真っ直ぐ天に向かって伸びることはありません。幹周り10メートルを超える巨大な幹から、まるで怒り狂う炎のように、あるいは何かに悶え苦しむかのように、無数の枝が四方八方へと異様なうねりを見せながら伸びています。
樹齢400年以上とも言われるこの杉は、近年「縁結びのパワースポット」としてメディアで取り上げられ、多くの観光客が訪れるようになりました。しかし、地元の人々がこの木に向ける眼差しは、決して単なる「観光地」に対するものではありません。そこには、畏怖と、決して触れてはならないという暗黙の了解が存在しているのです。
血塗られた歴史と自刃の地
この異形の杉が育った場所は、単なる自然の産物ではありません。時は天正14年(1586年)、戦国時代の激動の中、薩摩の島津軍が肥後国へと侵攻しました。阿蘇大宮司家を守る最後の砦であった高森城の城主・高森伊予守惟直(たかもりいよのかみこれなお)は、三度の激戦の末に敗れ、再起を図るべく豊後国へと逃れようとします。しかし、追っ手に囲まれ、もはやこれまでと悟った惟直と家臣の三森兵庫守能因は、この地で無念の自刃を遂げたのです。
高森殿の杉は、まさにその無念の血を吸って育ったと言われています。二本の巨大な杉は、主従二人の魂が宿っているかのようにも見え、かつてはその根元に彼らの墓石が置かれていました(現在は含蔵寺に移されています)。この血塗られた歴史こそが、杉の異様な姿の根源にあると囁かれているのです。
神木伐採の祟りと白竜の伝説
ネットの情報はほぼ皆無ですが、現地ではある恐ろしい伝承が語り継がれています。大昔、この杉の幹は12本に分かれており、その見事な姿に目をつけた盗人が、銘木として売り捌こうと伐採を企てました。男が斧を振るい、6本の幹を切り倒したその時です。突如として天候が荒れ狂い、切り口から鮮血のような樹液が噴き出すとともに、巨大な白竜が姿を現したと言われています。
白竜は残りの6本を命がけで守り抜き、伐採を企てた男はその後、原因不明の高熱にうなされ、狂乱の中で自らの命を絶ったと伝えられています。それ以来、「大杉の根元には白竜が棲みついている」「枝一本でも持ち帰れば、一族郎党に祟りが及ぶ」として、地元の人々はこの杉を畏れ敬い、決して傷つけることのないよう守り続けてきました。
パワースポットブームの影で
この伝承を調べていく中で、私はある種の危惧を抱かずにはいられません。現在、高森殿の杉は「縁結びのパワースポット」として持て囃され、多くの人々が無邪気にその幹に触れ、パワーをもらおうとしています。しかし、その根底にあるのは、戦に敗れた武将の深い怨念と、神木を護る白竜の凄まじい執念です。
文献を突き合わせると、この場所が本来持っていた「禁域」としての性質が、現代の観光消費の中で急速に薄れつつあることが分かります。高森町役場が「柵内に人が立ち入らないように」と警告を発しているのも、単なる自然保護の観点からだけではないのかもしれません。無自覚に足を踏み入れ、神域を荒らす者に対して、白竜の怒りが再び向けられないという保証はどこにもないのです。訪れる際は、決して遊び半分ではなく、深い敬意と畏怖の念を持つべきでしょう。
