今宮戎の裏にある、恵美須町の顔
大阪市浪速区恵美須町。今宮戎神社の名が出れば、商売繁盛の華やぎが先に立つ。えべっさんの笹、福娘、初詣の熱気。だが、その賑わいのすぐ裏に、別の気配が残っている。高い建物の足元。細い路地。古い町割り。かつてこの一帯は、港と市中のあいだに置かれた、物が集まり、人が流れ込み、行き場を失った者も吸い寄せられる場所だった。
恵美須町という名は、今宮戎の門前町として知られる一方で、土地の記憶はそれだけでは終わらない。大阪の低地は水に弱い。川が暴れれば、町はすぐに濁流の底へ沈む。戦乱のあとには焼け跡が残る。近代に入れば、周辺には長屋、寄せ場、貧民窟が広がった。表向きは繁華。裏には、暮らしの脆さが積もっていた。
地名が隠す、古い影
「恵美須」は、戎神の名を負う。福の神の町だ。だが、この字面の明るさが、かえって土地の暗さを際立たせる。戎神は海と商いの神。出入りの激しい場所に祀られる。人が集まり、貨幣が動き、荷が積まれ、余りものも落ちる。恵美須町は、その落ちたものを受ける場所だった。
大阪の古い町は、地形に縛られている。上町台地の端から外れた低地は、かつて湿地や細い水路に切られた。雨が降ればぬかるみ、川が増水すれば水が引かない。そうした土地は、住みやすいとは言いがたい。だからこそ、家賃の安い長屋が建ち、日雇い、屑拾い、行商、芸人、そして職を失った人々が寄り集まった。暮らしの薄い層が、薄く重なっていく。そこに、近代大阪の影が落ちた。
明治から大正、昭和初期にかけて、大阪市南部には「貧民窟」と呼ばれた地域が形成された。西成、木賃宿、寄せ場、簡易宿泊所。恵美須町とその周辺は、そうした都市の底に近い空気を吸っていた。華やかな繁華街の背後で、路地の奥には火の気のない部屋が並び、病と失業が同じ畳の上に寝た。地名は福を名乗る。だが、土地の記憶は、福だけを残してはいない。
葬送と刑場、水と荒地が刻んだもの
大阪の南は、古くから「外」の気配を背負う。城下の外れ。寺社の境目。処刑や葬送にまつわる場所が点在し、人の生と死が近かった。恵美須町そのものに有名な刑場があったわけではない。だが、周辺には死を遠ざけきれない土地柄があった。葬列は細い道を通り、川越えに苦しみ、風雨にさらされた。水害で荒れた地面は、しばしば荒地のまま残された。
その荒れ地に、人は家を建てた。建てるしかなかった。木賃宿、長屋、仮小屋。雨音の大きい屋根。風が抜ける壁。貧しさは、隠れる場所を選ばない。町の外れに追いやられた者たちが集まれば、そこはすぐに「危ない場所」と呼ばれる。だが実際には、危ういのは人ではなく、土地そのものだった。洪水。火事。疫病。失業。暮らしを壊すものが、いつも先に来た。
今宮戎の門前として人を呼び込む一方で、恵美須町は、都市のはみ出しものを受け止める器でもあった。神社の賑わいは、日が高いうちの顔。だが夜になると、別の気配が立つ。帰れない者。泊まる場所のない者。明日を持たない者。そんな影が、門前の裏に長く溜まっていた。
実在の伝承と、土地に残る冷えた話
この辺りで語られてきたのは、派手な怪談ではない。もっと生々しい話だ。大火で逃げ遅れた話。水に浸かった長屋の話。病人が続いた話。夜中に人の声だけが路地を抜けた話。実際、浪速の低地は火と水に弱く、近代の都市災害のたびに被害を受けた。焼けたあとに残るのは、瓦礫ではない。住む場所を失った人たちの沈黙だ。
また、今宮戎の祭礼にまつわる古い伝承には、商いの神が荒れる海を鎮め、人を導くという筋がある。福を授ける神は、同時に、荒ぶるものを抱える神でもある。恵美須町の名がこの神を冠するのは、単なる縁起担ぎではない。水と商いと流民の町に、戎の名はよく似合った。福の裏には、いつも漂着がある。
近代の記録をたどれば、この一帯は大阪の都市下層と切り離せない。日雇い労働、簡易宿泊、露店、闇市の名残。戦後にはさらに人と物が滞留し、街は生き延びるための雑多さを増した。きれいに整えられた通りのすぐ裏で、暮らしはいつも綱渡りだった。そこで積み重なったものは、貧しさだけではない。見捨てられた気配だ。
今も消えない、あの町の背中
恵美須町の表は、いまや新しい建物と観光の顔を持つ。だが、地名は過去を消さない。福の神の町でありながら、低湿地に寄せ集められた暮らしの名残を抱え、貧民窟と呼ばれた時代の空気を薄く残す。土地というものは、きれいに塗り替えても、下に古い層を残す。水に弱い地面。人が逃げ込んだ路地。火と病に追われた記憶。すべて、地名の下で眠っている。
…お気づきだろうか。恵美須町は、最初から「福だけの町」ではなかった。福を祀る神の名を借りながら、その背後で、都市の底に沈んだ人々を抱え込んできた町だった。笑い声の裏に、濡れた土の匂い。笹の葉の音の下に、帰れぬ夜の気配。今もこの地を歩くとき、足元だけは見落とさないほうがいい。そこには、繁盛の看板では隠しきれない、深い影が横たわっている。