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大阪市生野区 猪飼野に眠る隠された歴史と渡来人の記憶

現在の顔と、裏の顔

大阪市生野区の猪飼野。いまは「いかいの」と呼ばれ、コリアタウンのにぎわいで知られる。商店街の赤い看板、焼き肉の匂い、行き交う人の声。昼の顔は、明るい。けれど、この地名をたどると、土の下から別の気配が立ちのぼる。古い村の名。古い職能の名。古い差別の影。ひとつの土地に、何層もの時間が沈んでいる。

猪飼野は、かつて猪を飼う人々、猪を扱う人々と結びつけて語られてきた地名だ。大阪の古い地名は、しばしば仕事の名を背負う。川、湿地、低い土地。そこに住みついた人の営みが、そのまま地名になった。猪飼野もまた、その一つとして伝えられてきた。だが、ただののどかな家畜の名で終わらない。古代の被差別民である猪飼部の名残、渡来人の集住、近世以降の身分差別。明るい商店街の足元に、冷たい層がある。

地名が隠す凄惨な由来

猪飼野の「猪飼」は、古代の職業集団「猪飼部」に通じるとされる。猪を捕らえ、飼い、宮廷や祭祀に供した人々。大和朝廷の周縁で、必要とされながらも、まっすぐに尊ばれなかった人々の名だ。名は役目を示し、役目は身分を縛った。猪を扱う手。血に近い手。生き物の命に触れる手。そうした仕事は、古い社会ではしばしば忌避の目で見られた。

猪飼野一帯には、古くから渡来系の人々が住んだと伝えられる。技術を持ち込み、ものづくりを支え、川沿いの低地に根を下ろした人々だ。大阪平野の東の端、鶴橋から今里へ、さらに生野の内側へ。水の流れに沿って人が集まる。米を作るだけではない。布を織る。鉄を扱う。土を焼く。そうした手仕事が、ここに積み重なった。だが、歴史の光はまぶしいほどに当たらない。渡来の技は必要とされたが、その人々の居場所は、いつも周縁だった。

地名の古さは、やさしい記念碑ではない。むしろ、忘れられた差別の札のように残る。猪飼野という音には、古代の職能と、後の被差別の記憶が重なる。人を支えた仕事が、そのまま人を低く見せる。そんな残酷さが、地名の皮膚に貼りついている。

このあたりは、低湿地でもあった。大阪の東部は、川と用水に刻まれた土地だ。洪水のたびに水が入り、逃げ場の少ない場所が生まれる。低い土地は、人も流れも集めるが、災いも集める。葬送の道、境界の道、捨て場の道。近世の都市では、そうした場所に差別の仕事が押し込められた。生の端と死の端。きれいな町の裏で、汚れとされたものを引き受ける場所。猪飼野の暗さは、そこにもある。

その地で語り継がれる実在の伝承

猪飼野周辺で語られてきたのは、単なる昔話ではない。古地名の伝承、渡来人の集落、寺社の縁起、被差別の記憶。それらが絡み合って残っている。

  • 猪飼部の伝承

猪飼野の名は、猪飼部に由来するという伝承で知られる。猪を捕らえる役目を負った人々がいた、という話だ。古代の職掌は、いつしか地名へ溶けた。職能の名が土地の名になる。土地の名が、後の人の偏見を呼ぶ。そんな流れが、静かに続いた。

  • 渡来系集住の記憶

生野区一帯には、朝鮮半島や大陸から来た人々が住み、技術と文化を持ち込んだ歴史がある。鍛冶、織物、焼き物、灌漑。生活を支える技が、この地の骨になった。現在のコリアタウンのにぎわいは、戦後に急に生まれたものではない。もっと深い地層がある。渡来の人々が根を下ろした場所。名も残りにくい労働の場所。

  • 差別の記憶

古くからの職能集団や、のちの被差別民に向けられたまなざしは、ここでも消えなかった。皮革、屠殺、葬送、清掃。社会が必要としながら、顔を背ける仕事。生野の周辺では、そうした仕事に携わる人々が歴史の中で周縁化されてきた。地名の古さは、尊敬だけを運ばない。差別の言葉も、いっしょに運ぶ。

  • 戦時と戦後の傷跡

この地域は、戦争の時代にも揺れた。空襲、焼失、引き揚げ、闇市、密集した住宅。戦後には、在日コリアンの生活拠点として再編され、差別と貧困の現実がむき出しになった。にぎわいの裏で、住む場所を追われる不安。子どもが学校で受ける視線。職を選べない苦しさ。古い差別は、名前を変えて生き残った。

読者を突き放すような不気味な結び

猪飼野は、ただの「昔からの地名」ではない。必要とされた人々が、必要とされるほどに低く置かれた土地だ。渡来人の技が育ち、古代の職能が沈み、近世の身分差別が固まり、近代の偏見が重なった。いま目の前にある商店街の灯りは、その上にともっている。

地名は、やさしく見える。けれど、耳を澄ませると、別の声が混じる。猪を追う足音。川に逃げる水音。名を奪われた人の沈黙。差別に耐えた暮らしの気配。土地は、忘れたふりをしない。人が忘れても、地名は残る。

…お気づきだろうか。猪飼野という二文字の奥には、にぎやかな今を支えるだけでは済まない、冷えた歴史がまだ息をしている。祭りの音の下で。商いの笑顔の下で。誰かが置き去りにされたままの、深い闇が。

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