彦根市 佐和山――現在の顔と、裏に沈む顔
彦根市の東に、佐和山がある。いま見れば、ただの山ではない。だが、ただの山で終わらない。麓には寺があり、道があり、石垣の痕があり、城下の気配が残る。昼間なら静かな史跡。けれど夜になると、この山は別の名を帯びる。石田三成の居城、佐和山城。その名だけで、土地の空気が少し重くなる。
佐和山は、近江の交通の要に立つ。琵琶湖の水運、陸の道、城下へ通じる筋。人が集まり、物が集まり、戦も集まった。山そのものが要だった。だからこそ、ここは守りの地であると同時に、奪い合いの地でもあった。石田三成がこの山を拠点にしたのは、偶然ではない。あの時代、この山は権力の匂いを吸い込み、血の匂いも吸い込んだ。
地名が隠す、凄惨な由来
「佐和山」という名は、古くから伝わる山名だが、その音にはどこか冷えたものがある。近江の山々の中でも、佐和山は城山として知られ、戦国の記憶を強く残した。地名そのものの由来は諸説あるが、少なくともこの山が古くから人の営みと切り離せなかったことは確かだ。山の名は、ただの呼び名ではない。土地に起きた出来事を、黙って抱えた札のようなもの。
佐和山城は、もとは近江守護・京極氏の拠点として整えられ、のちに浅井氏の勢力下を経て、石田三成の居城となった。三成は豊臣政権の中枢で働き、やがてこの山城を本拠にした。山上の城は堅く、麓へにじむ生活は細い。だが、関ヶ原の戦いで西軍が敗れると、ここにあるものは一気に裏返った。落城。廃城。城の名残は削られ、石は運ばれ、山は静かに解体された。
その後、佐和山の石垣や石材は彦根城の築城に転用されたと伝わる。勝者は敗者の城を砕き、自らの城に埋め込んだ。形を変えた石は、何も言わない。だが、土地の人は知っている。あの山の石が、別の城に生きていることを。潰された城の骨が、今も彦根の城下に混じっていることを。勝った側の礎の下に、負けた側の名残が眠る。そんな土地が、穏やかなはずがない。
佐和山の闇は、戦だけでは終わらない。城が失われたあとも、山は人の死を抱え続けた。周辺には寺院や墓所があり、葬送の道も通った。戦乱の死者、処刑された者、病で果てた者。近江の要地であるがゆえに、ここを通った死は少なくなかった。山は高くない。けれど、死の記憶は深い。地面にしみたものは、雨で流れても消えない。
この地で語り継がれる実在の伝承
佐和山には、石田三成をめぐる伝承が数多く残る。三成は冷酷な策士として語られることもあれば、義を重んじた武将として慕われることもある。だが、どちらの顔で見ても、彼の最期がこの山の影を濃くしたことは変わらない。関ヶ原後、三成は捕らえられ、京都で処刑された。その死が、佐和山の落城と重なって記憶された。
地元には、三成を惜しむ話が残る。敗者でありながら、筋を通した人物として語られることがある。城を失ったあとも、三成の名は山に貼りついたままだった。山麓の寺院には、三成ゆかりの伝承が残り、石田家の供養や、城跡にまつわる話が今も伝わる。こうした話は、ただの英雄譚ではない。勝者が書いた歴史の裏で、敗者を憶え続けた土地の記憶だ。
そして、佐和山城の廃絶後に残されたものがある。石垣の石、井戸の跡、曲輪の段差。見れば見るほど、かつてここに城があったことがわかる。だが、城はもうない。あるのは痕だけだ。痕は、消えたものを逆に強く見せる。人は、何もない場所でこそ、失われたものの重さを知る。佐和山は、その典型だ。
地元の古老や寺の縁起に触れると、夜の佐和山には近づくなという空気がある。はっきりした怪異譚として記録されたものばかりではない。けれど、戦で荒れた山、城が壊された山、死者を抱えた山として、畏れが残っている。畏れは説明しなくても伝わる。山の暗さ、風の抜け方、石段の冷たさ。そうしたものが、口伝の芯になる。
落城のあとに残ったもの
佐和山の歴史は、勝った者の華やかさだけでは終わらない。むしろ、負けた者の痕跡が強く残った。関ヶ原のあと、佐和山城は落ち、石は抜かれ、山は静かに削られた。だが、削られてなお消えないものがある。城のあった場所に立つと、そこに積み上がっていたはずの時間が、風のように戻ってくる。石田三成の名。落城の音。焼けた木の匂い。怨念という言葉を使いたくなるのは、そういう空気が、今もこの山に残るからだ。
お気づきだろうか。佐和山で語られる「怨念」は、幽霊の足音だけではない。城を壊し、石を奪い、名を変え、それでもなお土地が覚えているという事実そのものだ。勝った者が新しい城を築いても、敗れた山は消えない。彦根の景色のすぐそばに、佐和山は黙って立っている。昼は史跡。夜は記憶の底。近づけば、石の冷たさが先に来る。人の声は、そのあとだ。
佐和山は、今も彦根の東にある。だが、ただそこにあるだけではない。三成の居城だった山、関ヶ原後に落ちた山、石が運ばれた山、死者の記憶を抱えた山。その全部が重なって、ひとつの地名になっている。見上げるだけなら穏やかだ。けれど、夜の風が吹くとき、この山は静かに思い出させる。消えたはずのものは、消えきらない。山は知っている。石も知っている。人だけが、忘れたふりをする。